中野市の北東、山ノ内町との境を流れる夜間瀬川に十三崖という崖がある。この崖は、1406年(応永13年)の夜間瀬川の大洪水で浸食されてできたと言われている。13年の川欠(川によって欠けた)から十三崖となったらしい。高さ約33m長さ約1km。(長野県町村誌)

 応永13年8月霖雨により夜間瀬川が氾濫、中野平一円が大被害。松崎から西南に流下し遠洞湖に注いだ。(八ケ郷組合誌)

 現在、夜間瀬川は、竹原や赤岩を経て柳沢で千曲川に流れ込んでいる。かつての夜間瀬川は松崎から中野扇状地を西南に流れ、室町時代頃までは延徳田んぼに入っていた。(中野市誌)

 夜間瀬川松崎で、五ヶ郷(更科・小田中・西条・中野・松川)と四ヶ郷(吉田・一本木・灰塚・竹原)に引水し各堰に分水したのは、夜間瀬川が流路を北に向けた戦国期で、高梨氏が、松崎に「水分神(みくまりのかみ)」を祀って、水の安定確保を祈願したと伝えられている。

 延宝6年(1678)、金井村が水不足により松崎の取水口を破壊。九ヶ村は幕府に訴え水論となった。幕府の評定は、延宝7年夜間瀬川水利権は九ヶ村にあることを認め、金井村の水利は、松崎からの余水と夜間瀬村崖下の湧水とした。元禄7年には、田麦村と金井村が田麦堰を巡り水論。幕府評定は、田麦村の専用水利権を認め、金井村は田麦村の用水不足を生じない間において認めることとした。
こうして、当時の水利慣行は、現在も受け継がれ、ハヶ郷土地改良区は夜間瀬川の専用水利権を保持し、金井堰と竹原堰は松崎での余水と対岸の湧水、田麦、笠原、赤岩は笹川の用水を水源としている。