嘉永6年6月3日ペリー率いる四隻の黒船が江戸湾に来航。幕府に開港を迫る。ペリーは来春の再来を予告して江戸湾を退去。嘉永6年7月江戸幕府は江戸湾の防御として、勘定吟味役に「内海御警護御台場」の築造に急遽取り掛かるよう命ずる。江戸湾沿岸及び江戸近郊から、構築資材の調達が始まる。嘉永6年8月請負人の入札と開札。享保以降は入札によっているらしい。品川御台場は11基計画された。そして諸国に質素倹約令が出された。
 野沢温泉村でも、御国恩に報いたいと上納米を願い出ている。嘉永7年1月代官所から廻状が出ている。その概要は以下。

「近年異国船浦賀表へ度々渡来、沿岸防備に莫大の御入用、その向き諸雑費少なからず、いよいよもって質素倹約いたし、銘々急変の覚悟致す可し、自然異国船渡来動静之次第に寄り候ては遠境の軽民たりとも、御軍役仰せ出され候有無にかかわらず差図次第時日を俟たず戦地に駆け付け、身命をなげうち御国恩に報い奉り候心得これ有る可く候事」

嘉永6年10月、信州高井郡水内郡から硝石の献上
嘉永7年 3月、代官所より石炭調査の廻状
嘉永7年 5月、勘定方から代官所を通じて石積み人足の徴発
安政2年 4月、代官所より金属使用制限の申渡
安政 3年正月、代官所より梵鐘調査の廻状

 野沢温泉村からは42人の人足が参加している。一日に10里歩いた。江戸石工は未熟なため、信濃の人足にあたらせている。中野代官所は第二お台場を担当した。江戸湾工事は当時の金で75万両といわれている。これら人足は帰郷後、用水や田成工事を手掛けている。