関ヶ原の戦いで西軍についた景勝-兼続主従は、悠揚たる態度で家康の前に座した。意外なことに家康は上機嫌であった。ひとたび味方につければ、絶対に裏切らない相手であることを承知していたのだ。家康のとぼけ方でもあったが。

 上杉家は会津120万石から米沢30万石に減封された。給料が1/4に減らされたようなものだ。経営者なら大量の人員整理をしたであろう。雇い入れた浪人の中には見切りをつけて去っていたものもいた。しかし上杉家は家臣たちの誰一人として解雇しなかった。主家は1/4、家臣は1/3に減俸。兼続は30万石から5千石、実に1/60。家臣たちは納得したのである。
前田慶次郎は諸大名から高禄で招請されたが、500石の薄給でも進んで米沢まで従っている。兼続に男惚れしたのだ。

 米沢にきた兼続は城下町の拡張と水利事業に着手した。下士たちの居住地と食糧増産のためであった。何より急いだのは水路工事であった。「下級武士」たちを飢えさせないためであった。
 直江兼続は常に自分を律して、質素倹約に努めていた。また上杉家中の士にも奢侈をきびしく戒めた。