著者は元高等学校長であり、現在も高校・専門学校で教える傍ら、地域の近現代史研究に従事している。

 前半は、満洲分村移民を拒否した村長の生い立ちが書かれている。村長の名は佐々木忠綱。若いころ自由大学に学んだ。自由大学は、常設の学校ではなくごく短期間地元に著名人を招き学びを得る場である。さきがけは、上田自由大学といわれている。

自由大学設立の趣旨  「民衆が労働しつつ生涯学ぶ民衆大学、即ち我々の自由大学こそは教育の本流だと見られなければならぬことが・・・。」莫大な教育費を持つ裕福なものだけが高い教育を受ける機会を持つことに対する批判である。山間部に住む忠綱は、時には夜中の2時に村を出発し、ちょうちんの明かりを頼りに夜道を自由大学に通った。ある受講者は以下の感想を残している。一講座が終わると私たちは一皮向けて、人生のこと、世の中のことが一層はっきりと見えるような気がした。

 忠綱の根本精神は、自由大学の思想に感化されたものだと、後に述べている。日露戦争後満州移民が本格化した。満州国は関東軍が政治の実権を握る傀儡国家だった。当然ながら中国民衆は激しく抵抗し「反満抗日」の武装闘争が展開された。昭和恐慌による農村の過剰人口対策と、満州での兵力不足、食糧不足を解消するため、満州移民は国策として動き出だした。そのため国の年度目標が決まると、府県、市町村の割り当てが決まった。ノルマ達成のため、強制と強引な勧誘が繰り広げられた。

 長野県は多くの満州移民を送り出した。長野県は全国一の移民を送り出した。それだけ長野県は貧しかったのか。補助金が欲しかったのか。教育界にも開拓推進論者が多かった。担任が教え子に満州行きを勧め、家庭訪問し父母を説得して回った。そしてソ満国境近くに配備された。そして全国で最も多くの犠牲を生んだ。満州視察団に加わった忠綱は、耕地が移民者によって開拓されたものでなく、現地の人から強制的に収用した土地であったことに疑問を感じた。現地人を見下した差別的対応が気になった。

 村長の忠綱は、国策と自身の考えとに挟まれ苦悩した。そんなとき、「自分の身内を送れない所へは、他人を送れないじゃないですか」と言ったのは、妻てるだった。
「どんなに反対されても父はずっと耐えて、強い人だと思いました」と三女・久仁江は回想している。

 満州移民の悲劇は、他国を侵略し、他民族を蹂躙したときから始まっていた。