信濃国の葛尾城主村上義清は信玄に攻められ、春日山城の謙信に助けを求めた。このころ、村上義清だけでなく、高梨政頼、井上清政、須田満親ら北信濃の領主たちが信玄に逐われ謙信を頼っている。謙信は彼らの領地回復を名分とする「義」によって、川中島にて5度も信玄と激突している。
川中島から春日山城まで80kmであるから、謙信の防衛ラインでもあった。信玄は戦国大名としてオーソドックスな武力による領地拡大路線であったが、謙信の場合は、北信濃の武将たちの領地回復という「義」による戦いであった。

 戦国時代は破壊だけではなかった。建設の時代でもあった。敵に攻められても容易に落ちない城、富国強兵のための治水と灌漑、戦国大名は大なり小なり大土木工事を行っている。鉱山開発の技術革新も進んだ。城の石垣技術は棚田の石積みに、鉱山開発技術は水路トンネルに応用された。

 鎌倉武士は一騎打ちする場合、自分はどこどこの生まれでだれだれの子孫であるという口上を名乗り合う。名を残すためのパフォーマンス。名を上げる場は戦場しかない。名は家名である。先祖や子孫のことである。名を残すと子孫が優遇される。でなければ冷遇される。「生き恥をさらした家系」のレッテルが張られる。だから、評価される死に方でなければならない。無駄死にや犬死には避けたい。戦場では命とともに生活もかかっていた。死の価値を重んじていた。では、現代のサラリーマンが過労死した場合はどうだろうか。正当な代償が与えられるであろうか。

 歴史は勝者が書くから勝者の歴史になってしまう。負けた側に厳しい書き方になってしまう。仕方のないことかもしれない。